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まほろば通信

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2009年 12月 10日

故実書から吉宗流流鏑馬再興

藤原定家の日記で、一部は「吾妻鏡」編纂資料となったといわれる「名月記」。
その(承元元年)-1207年ー五月九日に
「・・・・・・・先流鏑、乍七人中的、中央すこしもかたよせず、射わりたりて候き、
装束以下事ハ不及委記、」
とあります。「不及委記」とあるのは、装束などが一般によく知られた、常識だからです。

14世紀、南北朝の頃になって騎射戦から打物戦に変化していくと、それまでの
弓馬の常識は常識でなくなり解らないものとなり、その時になって故実書が書れて
いったのです。

斉藤直芳が「総じて芸は実際にもちいられているうちは生命があり、実用をはなれると
形式化する」(弓馬と名将)というように

故実書に書かれていることはすでに形式化したあとのことを残したものが多く、
そこから流鏑馬を再興するのは大変なはずです。
吉宗から命をうけた浦上彌五左衛門は苦労しただろう と思う。
かれは「流鏑馬類聚」という書物をまず作った(貞丈雑記)
この「流鏑馬類聚」がどこにあるのか私は知らないんです。(誰か教えて下さい)
この書から元文二年二月のやぶさめが再興された(貞丈雑記)のです。
元文二年二月の流鏑馬の記録は宮内庁書陵部にありました(鈴木真弓氏が
探してくれました)ので、
「流鏑馬類聚」にかかれていたであろうと思われることは解ってはいるのですが・・・

江戸時代、時の最高権力が諸家の記録・画を提出させて、時間をかけて再興させた
たものが「流鏑馬類聚」に書かれているはずなのです。

東京高田馬場穴八幡神社の流鏑馬がその流鏑馬をしっかり伝えています。

by ogasawararyuu | 2009-12-10 16:38 | やぶさめ


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